ログイン冴子が病室を出ていって一時間もしないうちに、出血が増えた。 夜中の検査室には、機械の作動音だけが続いていた。 女医が画面の一点を拡大する。何かを探すように動いていた指が止まるまで、私は瞬きもできなかった。 「先生」 「心拍はあります」 肺に残っていた空気を、ようやく吐き出した。 「では、赤ちゃんは」 「生きています。ただ、出血が増えています。引き続き安静が必要です」 生きている。 その言葉に縋りつきたいのに、女医がつけた「ただ」が離れてくれない。 今は生きている。けれど、明日のことまでは誰も約束してくれない。 お腹へ手を当てても、まだ小さすぎて何もわからなかった。画面を見なければ、この子がここにいることさえ確かめられない。 それがたまらなく心細かった。 ベッドごと病室へ戻されると、朔弥さんが立ったまま待っていた。 「心拍はありました」 「そうか」 彼は大きく息を吐くと、壁へ手をついた。 座ればいいのに、しばらくそのまま動かなかった。私より先に崩れてしまわないよう、壁に支えてもらっているようだった。 「眠ってください」 「君が眠ったら眠る」 「私は眠っています」 「痛みで起きていただろう」 言い返せなかった。 眠ったふりをしていたことまで、気づかれていた。 朔弥さんはベッド横の椅子へ座り、私の手を握った。 「……姉さんの時も、俺は何もできなかった」 彼から香澄さんの話をするのは珍しかった。 「流産したと聞かされた時、母は最初に、次はいつ妊娠できるのかと医師に聞いた」 さっき病室へ来た冴子は、私の顔より先に検査表を見た。そして、赤ちゃんは無事なのかと聞いた。 同じだった。 香澄さんがいた場所に、今は私がいる。 知らずに重ねていた自分の手へ、力を込めた。 「姉さんは同じ部屋にいた。それなのに、誰も姉さんを見ていなかった」 「朔弥さんは?」 「俺も母を止められなかった」 朔弥さんは私から目をそらさなかった。 謝っているのは、今日のことだけではないのだと思った。何年も前から残っていた後悔まで、私を失いかけたことで引きずり出されたのだ。 「今日も、俺は何もできなかった」 「むしろ、あなたはずっと心配してくれていました。油断していたのは私です」 「君のせいじ
冴子は、すぐには次の言葉を出せなかった。 病室の空気が、ぴんと張ったまま動かない。 朔弥さんの手は、私の手を包んだままだった。 さっきまで会社も御門も捨てると言っていた人が、今度は逃げないと言った。 私たちが帰る場所を、御門のためではなく、私たちのために作ると。 その言葉が、何度も耳の奥で繰り返される。 帰れる家。 ただ戻される場所ではなく、命令を聞くために立つ場所でもなく、私とこの子が安心して眠れる場所。 そんなものを望んでいいのだろうか。 御門に嫁いだ日から、どこかで諦めていた。 この結婚は条件で、この子は役目で、私はそのための身体なのだと、そう思わされてきた。 けれど朔弥さんは違うと言った。 私たちのために作る、と。 嬉しかった。 今すぐ泣き出して、ありがとうと言いたかった。 嬉しいのに、泣きそうなのに、下腹の痛みがそれを許してくれない。 冴子の唇が固く結ばれた。 今までの冴子なら、ここで私を見たはずだった。 嫁としての心得。御門の妻としての自覚。母親になるなら耐えなさい。 そんな言葉で、私を黙らせようとしたはずだった。 けれど、冴子が見ていたのは朔弥さんだった。 思い通りに育てた息子が、初めて自分の腕の中から出ていく。 その事実を、まだ受け入れられない顔だった。 「その言い方は何です。私は家族として心配しているのよ」 「家族なら、最初に真尋を見ろ」 朔弥さんの声は静かだった。 静かなぶん、逃げ道がなかった。 「腹の子の無事だけ聞いて、真尋の痛みを一度も聞かなかった」 冴子の頬が、わずかに引きつった。 「私は、御門の将来を考えて――」 「姉さんにも、そう言ったのか」 冴子が黙った。 その沈黙だけで、病室の温度が変わった気がした。 女医が病室へ戻ってきた。 「患者さんを休ませます。ご家族でも、今はお帰りください」 「私は御門の――」 「私の患者は高瀬真尋さんです」 女医は冴子を廊下へ出し、扉を閉めた。 扉が閉まった瞬間、張っていた糸がふっと緩んだ。 冴子の声が遠ざかっていく。 それだけで、病室の空気が少しだけ私のものに戻った気がした。 赤ちゃんを守るため。 御門のため。 家のため。 いくつもの正しそう
目を開けると、白い天井があった。 広い処置室。何人もの足音。聞き慣れない機械の音。 窓の向こうに、低い商業ビルの看板が見えた。 その奥に、駅前の歩道橋が小さく重なっている。 父が入院した時、何度も見た景色だった。 ここは、あの総合病院だ。 腰から下腹にかけて、重い痛みが残っている。 「高瀬さん。聞こえますか」 ベッドの横に、白衣の医師がいた。 名札に、産婦人科と書かれている。 その隣に、いつものクリニックの女医の顔が見えた。 「先生……何でここに」 「御門さんから連絡を受けました。あなたの経過を知っている医師として、同席します」 「赤ちゃんは」 自分の声なのに、ひどく掠れていた。 「これから確認します。まず、転落した時のことを教えてください」 「階段で、肩を押されました。何段か落ちて……榊原さんが受け止めてくれました」 「わかりました。今は検査に集中しましょう」 機械の画面へ、白と黒の影が映る。 前に見た時よりも、ずっと小さく感じた。 女医の手が止まった。 何も言わない時間が長い。 「先生」 「待ってください」 画面の中を指で示される。 「ここです」 小さな明滅があった。 「心拍は確認できます」 その一言で、張り詰めていたものが崩れた。 画面の中の小さな明滅が、急にただの点ではなくなる。 そこにいる。 まだ、ここにいる。 私のお腹の中で、必死に動いている。 落ちたのに。 血が出たのに。 あんなに痛かったのに。 この子は、まだ私の中にいてくれた。 涙がこめかみへ流れた。 「……生きているんですね」 「はい。ただ、出血があります。今は安静にして、変化を見ます」 「無事に生まれますか」 女医は簡単に頷かなかった。 「今、赤ちゃんは頑張っています。私たちもできることをします」 それ以上は聞けなかった。 処置が終わり、病室へ移される。 扉が開くなり、朔弥さんが入ってきた。ネクタイはなく、シャツの袖には階段の埃がついている。 「心拍、ありました」 彼はベッドの横へ来たまま、何も言わなかった。 「朔弥さん」 私の手を両手で包み、額へ押し当てる。肩が大きく上下していた。 「会社も、御門もいらない」 一瞬、何を言わ
身体が後ろへ傾いた。 「あっ……!」 声が、階段の壁にぶつかって跳ね返った。 「真尋!」 下から朔弥さんの叫びがした。 誰かが短く悲鳴を上げる。ヒールが床を叩く音。手すりを探した爪が金属を引っかく、いやな音。 澄麗の顔が遠ざかった。 勝った顔ではなかった。自分が何をしたのか、まだ分かっていない人の顔だった。 「待っ……」 言葉にならない。 白い壁。黒い段差。踊り場の手すり。ぜんぶが斜めに流れて、どちらが上なのか分からなくなる。 手を伸ばした。 手すりは遠い。 お腹。 だめ。 この子だけは。 「真尋さん!」 階段の下から、榊原さんの声が裂けるように飛んできた。 一段目で背中を打った。 「うっ」 二段目で腰が跳ねる。 「いや……っ」 両腕でお腹を抱え込んだ。自分の身体より先に、ここを守らなければならなかった。 「高瀬さん!」 下から伸びてきた手が、私の腕をつかんだ。 榊原さんだった。 彼女は私を引き上げようとして、勢いに負けた。二人で踊り場へ倒れ込む。榊原さんの肩が壁へぶつかり、眼鏡が飛んだ。 私は彼女の身体の上へ落ちた。 全段を転がり落ちずに済んだ。 そうわかった直後だった。 腰の奥から、下腹へ、ぎゅうっと絞られるような痛みが走った。 「……っ」 声にならなかった。 反射的に身体を縮めようとして、誰に言われたわけでもないのに、もう動いてはいけない気がした。 下腹が重い。 痛い。 さっきまでそこにいた小さな命が、痛みの中で見えなくなる。 赤ちゃん。 呼びかけたいのに、声が出ない。 ここにいる、と返してほしかった。 けれど返ってくるのは、下腹を締めつける痛みだけだった。 「高瀬さん。動かないで」 榊原さんの声が近い。 返事をしようとした。けれど、吸った空気が途中でつかえて、口だけが開いた。 階段の上で、澄麗がこちらを見下ろしていた。 「わ、わたくしは……」 壁へ手をつき、一歩下がる。 「真尋さんが、勝手に足を滑らせたのよ」 「違います」 榊原さんが、私の下から答えた。 「あなたが両手で押しました」 「嘘よ!」 「見ました」 「あなたはわたくしに雇われた人間でしょう!」 澄麗の叫びが階段に
「非常ベルの最中にする話ですか」 澄麗は答えず、踏んでいた私の端末を蹴った。 端末は踊り場を滑り、壁にぶつかって乾いた音を立てた。拾おうとした私と端末の間へ、澄麗が一歩踏み出した。 「あなたが、わたくしを避けるからでしょう」 「呼ばれていませんでしたから」 「私が呼んだら、また朔弥さんへ言いつけるつもりだったくせに」 澄麗が手にしているスマートフォンは、画面の端がひび割れていた。 「会食でのことなら、私からは何も言っていません」 「嘘よ!」 澄麗の声が壁に当たり、何度も響いた。 「あなたが泣きついたから、朔弥さんも、お祖父様まで、わたくしを悪者にしたのよ! 三日も家から出してもらえなかった。端末まで取り上げられて、朔弥さんには近づくなと言われたわ!」 「それを決めたのは、私ではありません」 「あなたのせいで決められたのよ!」 澄麗がさらに近づく。 非常ベルが鳴りやんだ。急に静かになった階段で、澄麗の荒い呼吸だけが聞こえる。 「あなたは、何も知らないのね」 澄麗は笑った。さっきよりも口角が上がっているのに、目はぎらついたままだった。 「わたくしが初めて朔弥さんに会ったのは、九歳の時よ。御門のお屋敷へ招かれて、慣れない草履で転んだの。みんなが見ているだけだったのに、朔弥さんだけが手を差し出して、ハンカチをくださった」 初めて聞く話だった。 「『立てるか』って。それだけよ。朔弥さんは、もう覚えていないでしょうね。でも、わたくしはあの時のハンカチを今も持っているわ」 澄麗の声が、わずかにやわらいだ。 けれど次の瞬間には、私を睨んでいた。 「母も、御門の方々も、いつかはわたくしが朔弥さんの隣に立つと言った。だから勉強したの。語学も、経営も、社交も。海外へ行ったのだって、朔弥さんの妻として恥ずかしくない女になるためよ」 ひびの入った端末を握る手に力が入る。 「朔弥さんは、わたくしの初恋の人なの。ほかの誰も好きにならなかった。ずっと、帰国したらあの方の隣へ行くのだと思っていたわ」 澄麗の目から涙が落ちた。 「それなのに、帰ってきたら、あなたがいた」 私を見ているのに、私のことなど見ていない。 澄麗が憎んでいるのは、自分が座るはずだった席にいる女だ。そこにいたのが誰でも、同じように憎んだのだろう。
会食から三日後、一条澄麗は会社に姿を見せなくなった。 御門との打ち合わせにも、城戸ホテルズの共同案件にも来ない。社内では、会食での騒ぎを聞いた一条家が止めたらしいと囁かれていた。 静かになったはずなのに、榊原さんだけは何度も会議室の扉を見ていた。 「榊原さん」 呼ぶと、彼女はすぐにこちらを向いた。 「一条様から、何か連絡はありませんでしたか」 「ありません。なぜですか」 「でしたら、結構です」 資料を閉じる袖口から、手首の上に赤黒い痕が見えた。指の形に並んでいる。 「その腕、澄麗さんですか」 榊原さんは袖を引いた。 「業務に支障はありません」 「そういうことを聞いたのではありません」 「では、お答えできません」 いつもどおり、必要なことしか言わない。 けれど私が席を立つと、榊原さんも立ち上がった。 「高瀬さん」 声をかけたまま、数秒黙る。 「一条様から呼ばれても、一人では会わないでください」 「何かあったんですか」 「まだ、私にもわかりません」 「わからないのに、警告するんですか」 「わからないからです」 私は、真意を見極めるように榊原さんをじっと見た。 この人が敵なのか、味方なのか。まだわからない。 それでも、今の警告を聞き流す気にはなれなかった。 榊原さんはそれ以上話さなかった。 午後からは、城戸ホテルズ新館で内覧がある。事務所を出る前、朔弥さんから電話がかかってきた。 『終わる時刻を送れ』 「運転手さんに連絡します」 『俺が迎えに行く』 「今日は会食ではありませんよ」 『関係ない』 三日前、澄麗の前で私の席を自分の隣へ移した人だ。まだ警戒が解けていないらしい。 「では、七時にお願いします」 『一人で外へ出るな。着いたら連絡する』 榊原さんと同じことを言う。 二人に心配されるほどのことなのかと、初めて考えた。 心配性だと思ったけれど、もしかしたら、朔弥さんの心配が正しいのかもしれない。 新館の内覧は、予定より早く進んだ。 八階の客室と宴会場を回り、最後に会議室で修正点をまとめる。城戸さんは支配人と話し、榊原さんは工程表へ変更を書き込んでいた。 一条家の名前は出なかった。澄麗から連絡もない。 考えすぎだったのかもしれない。 窓の外が暗
ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。 義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。 胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。 澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。 「こんばんは、真尋さん」 澄麗がやわらかく微笑んだ。 「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」 私は一拍遅れて会釈した。 もう
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は
朔也さんは一晩中帰ってこなかった。 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」 一条澄麗。 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門